土の器

宮本牧師のブログ

あこや貝の涙

テベリヤ教会の献堂30周年記念礼拝で語られたメッセージの中で、「志摩と言えば真珠」と言うことから、真珠の歴史や真珠がどのようにして生み出されるかという話を聞きました。その話しを聞きながら、私はイエス・キリストが語られた譬え話を思い出していました。マタイによる福音書13章に出て来る「天国のたとえ」のひとつです。 「また天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである。高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、それを買うのである。」 すぐ前には、畑に隠された宝というよく似た譬えもありますが、どちらも財産をすっかり売り払って、宝を手に入れるという話しです。そのように、天国とは、どのような犠牲を払っても惜しくはない、最高の宝であると教えられる訳ですが、東京聖書学院の初代院長であった笹尾鉄三郎先生はこう言います。「この譬えを信者の側から見ないで、キリストの側から見なさい」と。 キリストの側からこの譬えを読めば、高価な真珠を見つけ、自分の持ち物をすべて売り払い、それを手に入れた商人こそキリストです。であるとするなら、キリストがどんな犠牲をはらっても、手に入れようとした真珠こそ、ほかではありません。それはあなたであり、私なのです。 ダイヤモンドがなかった当時、真珠は宝石の中で最も高価なものと考えられていました。神は、地上で最も高価な真珠を選び、あなたがどれほど価値ある存在であるかを伝えようとされたのです。 真珠の尊さはどこにあるのでしょう。真珠の成分は黒板に字を書くチョークとほとんど変わらないそうです。真珠をつぶせば、石灰の粉にしか過ぎないのです。それなのに、どうして真珠には価値があるのでしょう。真珠はあこや貝の中に入った砂や異物を、あこや貝がその液体で丁寧に包んで、その傷みをもたらすものと共に生きることによって生み出された、あこや貝の命の中から採られるものであり、その涙の結晶だから尊いのです。現代の養殖ではなく、自然の真珠は、約千個の貝の中からひとつ見つかれば良い方だったと言います。あこや貝はその傷みを7年も続け、何層にも何層にも体液でその傷みの原因を包んで一粒の真珠を生み出しました。高価な真珠とは、そんな傷や痛みによって、長い年月を経て生み出された愛の結晶だったのです。 神は私の人生に一粒の砂や異物が入ることをお許しになることがあります。私たちを傷め、苦しめ悩ませる一粒の砂、こんなものがなければと思えるような経験や出来事、失敗や過ち。しかし、神は長い時間をかけて、ご自身の愛をもって、幾重にもそれを包みながら、やがてあなたを高価な真珠のように美しく輝かせてくださるのです。そればかりか、そんな私たちをご自分のものとするために、すべてを捨てて買い取ってくださったのです。「彼らのために、わたしは自分自身を十字架の上にささげます。」「わたしはあなたをあがなった。あなたはわたしのものだ。・・・わたしの目には、あなたは高価で尊い」と。