土の器

宮本牧師のブログ

平安と勝利

十字架の前夜、最後の晩餐が終わった後、弟子たちに語られたイエスの最後の教えが終わろうとしています。14章から、時折弟子たちとのやり取りをまじえて進められてきたイエスの最後の説教も16章で終わり、続く17章全体はイエスの祈りになります。ここに至って、弟子たちは言いました。「今は、はっきりとお話になり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存知で、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られあなたがたと、わたしたちは信じます。」これはこの時点で、弟子たちにできる精一杯の信仰告白でした。しかし、この後、「あなたがたが散らされて自分の家に帰っていまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている」とイエスが語られたとおり、弟子たちは「信じます」と言った言葉をキャンセルして、イエスを独り置き去りにしていなくなってしまうのです。 イエスはそんな弟子たちに向かって、一連の教えの最後の言葉として、励ましと慰めに満ちた言葉を語られたのです。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」 この夜語られたイエスの最後の教えは「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」との言葉で始まり、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」と続き、最後の最後に、もう一度「あなたがたがわたしによって平和を得るためである」で閉じられていきました。実際は、とても心穏やかではいられない状態、まるで嵐に弄ばれる小舟のように、弟子たちは動揺し、動転していました。そんな弟子たちに、イエスがどうしても遺していきたかった贈り物、それが心の平安だったのです。イエスを信じたからと言って、世にあって苦難や悲しみ、あるいはストレスやプレッシャーがなくなるというのではありませんが、そんな不安や悲しみの嵐の中でも安心していられる心の平安があるのです。 新約聖書にある13の手紙を書いたパウロという人物は、大きなプレッシャーを受けた時のことをコリントの信徒への手紙に書いています。「わたしたちは絶えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。・・・神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせて・・・くださいます。」 You raise me up・・・、この方が勇気を与え、立ち上がらせてくださるから、どんな山も荒海さえも乗り越えて行くことができるのです。I am strong when I am on your shoulders、その肩に寄りかかるとき、私は強くなれるのです。 キャンプに続き、明日は志摩の教会での土曜礼拝です。