土の器

宮本牧師のブログ

しばらくすると

ヨハネによる福音書が、多くのページを割いて記録したイエスの最後の教え。今それを読んでいる私たちにも神秘に満ちていますが、それが語られた日、弟子たちにはほとんど理解できないような内容でした。それをヨハネはすべてが終わった後で、深い理解のうちに伝えようと試みています。 三位一体の神秘もそうですが、その後の発言がさらに弟子たちを当惑させました。「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」 時間的には、十字架の死と復活を預言した言葉として読むのが自然です。最初の「しばらく」はイエスの死が近づいていること、後の「しばらく」は三日目の復活です。しかし、弟子たちには何のことかわからず、互いに論じ合いました。そこで、イエスは、さらに詳しくこれから起ころうとすることを弟子たちに説明されたのです。「イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。・・・はっきり言っておく(アーメン、アーメン)。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」 まず、イエスの死、十字架によって、深い悲しみが弟子たちを襲うこと、世はそれを見て喜ぶこと(世とは神に敵対するサタンとその勢力のことです)、しかし、弟子たちの悲しみは喜びに変わること。それは子を産んだ女が、喜びのあまり陣痛の苦しみを忘れるようなもので、弟子たちの悲しみもイエスとの再会によって喜びに変えられると語られています。 そして結論。「今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」 ここでやはり鍵になるのが、「しばらくすると、私を見るようになる」と語られた「しばらくすると(a little while)」ということです。時間的には、復活のキリストとの出会いと読むのが自然だと話しましたが、意見の分かれるところです。ある人は、再臨のキリストとの出会いを指していると考えます。それも預言的な解釈としては一理あります。しかし、文脈から言えば、直前まで、聖霊の働きについて話されていた訳ですから、またイエスが「父のもとに行く」と言われていたことも併せて語られていることから、やはり真理の御霊である聖霊が来られるときと読むのがイエスの真意に迫るように思います。 「しばらくするとわたしを見るようになる。」「わたしは再びあなたがたに会う。」この出会いは、復活のキリストとの出会い(40日間限定の数回の出会い)でも、いつとも知れない再臨のキリストとの出会いでもなく、聖霊によって、私たちの心に内住し現存されるキリストとの出会い、誰にも奪うことのできない永遠の出会いのことなのです。 「世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。」 今日は海の日。海が好きです。 今週も大切なことを大切に。