土の器

宮本牧師のブログ

プロは道具を大切にする。音楽家には楽器。料理人には鍋や包丁。イチローの活躍の背後にも、彼のバットを20年近く作り続けてきた専門職人がいるそうだ。多くの説教家にとっての道具。それは辞書であり、さまざまな書物であり、パソコンであり・・・・・・。しかし、多くの場合、あまりに身近すぎて気づかれず、ぞんざいな扱いを受けている道具がある。それは「声」である。・・・ 「声」についての説教者必読書は、今なお竹内敏晴の『ことばがひら劈かれるとき』である。彼は言う。 「話しかけるということは、こえで相手のからだにふれること、相手とじかに向かいあい、一つになることにほかならない。・・・話しことばは、まずこえを発する衝動がからだの中に動かなければ生まれない。・・・話しことばは、まずなによりも他者への働きかけです。相手に届かせ、相手を変えること。・・・たんなる感情や意見の表出ではない。・・・われわれは歪んでおり、病んでいる。スラスラしゃべれるものは、健康という虚像にのって踊っているにすぎますまい。からだが、日常の約束に埋もれ、ほんとうに感じてはいない。そこから脱出して、他者まで至ろう、からだを劈こう、とする努力、それがこえであり、ことばであり、表現である、とこう言いたいのです。」 声は、説教原稿の文字を業務的に読み上げる道具ではない。説教者は肉体をもって、会衆の前に立つ。そして、福音に突き動かされ、肉体から湧き起こる声をもって、しかも福音の光の中で、ある願いを抱きつつ、声で聴き手にふれるのである。説教者は、その声をもって、相手を変えようとする。自分に起こった変化が、聴き手にも起こることを願いながら。 そして、その言葉が相手に届く瞬間、聴き手は動く。礼拝堂の空気が震える。 『説教を知るキーワード』という本を読んで、教えられることが多かった。使徒言行録の2章のペンテコステの朝の説教のように、聴く人のからだに触れるような声で説教ができるように祈る。 「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか』と言った。・・・ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。」アーメン。