土の器

宮本牧師のブログ

体を備えてくださいました

ヨハネ福音書のクリスマス・メッセージです。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」 受肉の神秘を伝える「わたしたちの間に宿った」という言葉は、本来「天幕を張る」という意味です。昔、荒野を旅するイスラエルの民の中心に「臨在の幕屋」と呼ばれる特別な天幕がありました。その天幕が完成した日のことが、出エジプト記の最後に記されています。「雲は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた」と。ですから、ヨハネは、あの日、イスラエルの民の間に宿った神の栄光が、イエスの肉体という幕屋の中に宿り、私たちの間に住まわれたのだと言っているのです。なぜ?でしょうか。 聖書は66巻、1189章から成りますが、罪が出てこない章がどれくらいあるかご存知ですか? 罪を見いだすことのできない章は、創世記の1章と2章、そして黙示録の21章と22章、このたった4章だけです。聖なる書であるはずの聖書とは、実は人間の罪にまみれた、とことんまえ罪について描いた書なのです。それは、罪の問題の解決なくして、人は絶対に幸せになれないことを私たちに教えています。ですから、聖書は贖罪について、いささかもぶれることなく、「キリストは私たちのために生まれ、私たちの罪を背負われた」という事実を一貫して語り続けるのです。 愛である神は、人類の救いのために人となる必要があり、十字架の上で私たちのために死ぬ必要があったのです。ヘブライ人への手紙にこう書かれています。「キリストは世に来られたとき、次のように言われたのです。『あなたは、いけにえや献げ物を望まず、むしろ、わたしのために体を備えてくださいました。あなたは、焼き尽くす献げ物や罪を贖うためのいけにえを好まれませんでした。そこで、わたしは言いました。「ご覧ください。わたしは来ました。聖書の巻物に私について書いてあるとおり、神よ、御心を行うために。」』」 人類救済という神の願いを実現するために、キリストはこの世界に来られたのです。これがクリスマスの真実です。 次の日曜日は、待降節第3週の礼拝です。聖餐式が行われます。 今年の待降節聖歌隊が、瞬きの詩人と呼ばれる水野源三さんの詩を賛美しています。
1曲は「星よ光りて」という曲です。

ユダヤの国の小さき村に 悩み苦しむ人々救う
神の独り子生れしことを 知らせよ知らせよ 星よ光りて

君の君をば拝するために 暗き夜道も喜び勇み 
はるばると行く者を導き 進めよ進めよ 星よ光りて

救いの御子が産声上げて 真白き布でくるまれたまい 
静かにねむる馬屋の上に 止まれよ止まれよ 星よ光りて!

身動きもできずに寝ているだけの日々、夜空を見上げたのでしょうか。東方の博士たちが、星に導かれたように、二千年の時を越えて、夜空に輝く一つの星が源三さんをユダヤの小さき村ベツレヘムの馬屋に導きました。東方の博士のことは、マタイによる福音書の2章に記されていますが、その短い記事に、星という言葉が4回も出て来ます。そしてついに、9節「東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった」のです。源三さんは、まるでその星を見、呼びかけるように、「知らせよ、進めよ、止まれよ、星よ光りて」と歌いました。今年の待降節、たくさんの「?」を持ったままでもいいです。キリストのもとに行きましょう。そして東方の博士たちがしたように、この方のうちに神を礼拝しましょう。