土の器

宮本牧師のブログ

独り子である神

今年も礼拝では、毎週ヨハネ福音書を学んできましたが、12月はクリスマスの特別編で、1章に戻ります。ほんとうは14章から、最後の晩餐の後、キリストが弟子たちに語られた最後の説教を学んでいるところでした。そこは「御心の至聖所」と呼ばれ、神の子であるキリストの胸の内が明かされる、キリスト教奥座敷というべき箇所で、いよいよ、これから聖霊の派遣、三位一体の神秘が語られるところでした。この難しい箇所をいかに語るべきか、来年に向けて祈り備えています。それでも、少し触りだけ話します。それがクリスマスの真実を理解する助けになるからです。 14章16節以下、「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わし、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。」すでに「わたしを見た者は、父を見たのだ。」「わたしと父とは一つである」と語られたキリストが、この世を去って行く前に、別の弁護者(助け主)、真理の霊、すなわち聖霊を遣わすと語られました。ここで使われている「別の」という言葉はギリシャ語で「アロス」ですが、別は別でも、全く同質のものという意味です。それは、父なる神と独り子なる神(キリスト)との間に見られる関係と同じです。フィリピの信徒への手紙2章6節に、「〔キリストは〕、神と本質的に一つ〔神が神であられるための属性をすべて保有しておられる〕<神のかたち>であられます」と書かれているのと同じです。 父なる神、独り子なる神、そして聖霊なる神、別は別でも、全く同質のもの、これを父と子と聖霊、「三位一体」と言うのです。そして、クリスマスとは、独り子なる神が、この地上に人の姿となり、お生まれになった日なのです。 そこで、ヨハネ福音書の1章に戻って、ヨハネが伝えるクリスマスの神秘について改めて学びたいと思います。ヨハネ福音書には、私たちのよく知っているクリスマスの物語がありません。聖書の預言もベツレヘムのことも、マリアもヨセフも、羊飼いも博士も天使も登場しません。しかし、ヨハネは独り子の神(ヨハネはこの方を「言(ロゴス)」と呼びます)が人となられた、その神秘を何のためらいもなく、真っ直ぐに伝えます。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と。つまりこう言うことです。人間の目に見えない神が見えるものとなり、人間の言葉で人間に語るために、神は人となられた。また、触れたり掴んだりすることのできなかった神が、人間がこの手で触れることのできるものとなるために、人の姿となられた。そして、不死のものである神が、私たちの罪の贖いの供え物として、十字架にかかって死に、信じる者に永遠の命を与えるために、人となられたと言うことです。 クリスマス、独り子である神が人となられたのは、父なる神を誰の目にも見えるようにするためでした。この方が神を示されたのです。ですから、だれでも、この方を通るなら、神と出会うことができるのです。 今週も大切なことを大切に。