土の器

宮本牧師のブログ

時間をつかったからだよ。

昨年の暮れに帰天されたカトリックのシスター渡辺和子先生の新刊『どんな時でも人は笑顔になれる』から、素敵な文章です。 「私には、物事ののみ込みの遅いところがあります。しかし一旦のみ込むと、仕事はわりに速い方と思います。その私が忘れられないのは、母のこんな言葉です。 「和子、速いばかりが能ではありませんよ。あなたの仕事は速いけれども、ぞんざいです。」 そういう母自身、決して手の遅い方ではなかったけれども、母が繕ってくれたものは決してほつれなかったし、母が結んだ風呂敷包みは不思議に途中でほどけることはありませんでした。 何かそこには年季が入ったコツといったものと同時に、心、愛情が込められていたのだと今になって思います。 星の王子さまは地球上に何千本と植えられているバラの中に、自分が星に残してきたのと同じ花を見つけることができませんでした。いぶかる王子にキツネが言います。 「君があのバラの花をたいせつに思うのは、そのために時間をつかったからだよ。」 面倒に思いながらも水をやり、虫を取り、風よけを作ってやった時間は、いつしか、王子とバラの花との間に愛情を生み育てていました。お金にならない時間、特にならない時間、その意味では無駄と思える時間の中にしか愛情は育たないということです。 スピード至上、インスタント万能の世に、待つことの大切さ、無駄な時間の価値を説くこと自体、時代遅れ、見当ちがいと言われるかもしれません。しかしながら、待たないですむ人生などありはしないのです。そうだとしたら、待つことの意味も知らなければならないでしょう。 「急くことは、おまかせしていない証拠」と、かつて、あるお坊様に言われて耳が痛かったことがあります。何もかも自分の思い通りに、思い通りのスピードで運ばれるはずだという思い上がりを正していただいた瞬間でした。愛をこめた時間は無駄にはならない。費やした時間には愛が宿り、育っている。 いつも忙しそうにしていて、無駄が大嫌いな私たちには教えられる文章です。 実は、聖書の神は、たっぷり時間をかけて私たちを教育されるお方で、私たちには随分と遠回りで、無駄に思えるような方法で、私たちに対する愛を示されました。ですから、振り返ると、神のなさることには失敗も無駄もないことがわかるのです。今週も大切なことを大切に。 『アンネの日記』が出版されて今年で70年、教会の「アンネのバラ」満開です。