土の器

宮本牧師のブログ

クレイジー・ラブ

エスユダヤ人との論争は8章がはじめてではありません。5章では、ベトザタの池の奇跡から始まる安息日を巡る論争がありました。6章では、命のパンについての論争がありました。いずれも、ユダヤ人の心の目に覆いが掛けられていたということから、イエスの言葉が受け入れられず、両者の対立は激化していきます。このどこから見ても双方の言い争いにしか見えないやり取りも、実はイエスの側から言えば、いずれの場合も、神の御心とご自身の神性を明らかにされていくという点から言えば、一回一回が真剣勝負の伝道集会だったのです。反対されても反対されても、福音を語り続けるイエスの姿は普通ではありません。それは気が狂っていると言われてもおかしくないイエスの働きです。 先日、帯びに「世界中のクリスチャンに影響を与えている話題作」と書かれた「クレイジー・ラブ」という本を読みました。巻末に著者であるフランシス・チャンという先生へのインタビューが載っていましたが、最後にこう書かれていました。「クレイジーな人生とは、神がいつ自分の命を取ってもおかしくないと知りながら、安全な生活を好み、富をたくわえ、そうして地上での自分の時間を楽しむ人生のことです。私にとっては、これこそクレイジーです。神が存在しないかのような人生を歩む人こそクレイジーです。」 アブラハムが生まれる前から「わたしはある」、そんなことを言えば、反対され、クレイジーだと言われることくらい、イエスはわかっていました。しかし、その名を忘れ、神が存在しないかのように生きるクレイジーな人のために、イエスは黙っていることができなかったのです。ヨハネ福音書はイエスが生涯の終わりにこう語られたことを注意深く伝えています。「わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛(神の愛)が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」