土の器

宮本牧師のブログ

灯りの祭り

ヨハネによる福音書の8章12節、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」この言葉は、7章53節から8章11節まで、カギ括弧に閉じられた物語を飛ばして、前後をつなげると、仮庵祭の終わりの日に語られたことになります。 仮庵祭は、荒野での奇跡の40年を記念する祭りで、水と光がテーマになっていました。ヨハネは7章で水を、8章で光をテーマに、イエスが仮庵祭で語られた言葉を集めます。7章は「水注ぎの祭り」を背景に語られたイエスの言葉が神殿に響きましたが、8章では、「灯りの祭り」を背景に12節の言葉が語られました。この祭りの間、日暮れと共に、婦人の庭に準備された巨大な四本の燭台に灯りが点されましたが、この強く明るい光は、エルサレムのすべての通りと広場を照らし、イスラエルの賢者たちは、夜通し燭台の前で踊り歌ったと伝えられています。この儀式は、荒野での旅路を、神が「昼は雲の柱、夜は火の柱」を持って導かれたことを記念するものでしたが、この大いなる神殿の光も、しののめの訪れと共に次第に薄れ、日の出と共に消えてゆく運命にありました。イエスは再び言われました。「あなたがたは神殿の庭で燃えて輝く大いなる燭台の光を見、その光を楽しんでいたが、その光も日の出と共に消えてしまった。まことの光が来る時には、影は消え去らなければならない。かつて荒野において、イスラエルの民を導いた火の柱は、光なるメシアのシンボルであり、今こうこうと神殿の庭とエルサレムの町を照らしていた燭台の灯りもメシアの象徴であったが、大いなる燭台の光が表していたのはこの私である。私は世の光である」と。 イエスの宣言は、そこに集まっていたユダヤ人に大きな衝撃を与えましたが、敏感に反応し、イエスの言葉を否定しようとしたのはファリサイ派の人たちでした。彼らは、律法の教えに基づき、イエスの証言は無効であると主張しました。イエスは自分で自分のことを語っているが、ある証言が真実であると認定されるためには2人、3人の証言が必要であると言うのが彼らの主張です。それに対して、イエスはご自分の証言の正当性を主張されました。まず、イエスの証言が真実であるのは、イエスが神から出て神に帰ることを知っておられたからです。またイエスの証言が真実であるのがわからないのは、ファリサイ派の人たちが、イエスがどこから来てどこへ帰るかを知らなかったからです。さらに、イエスの証言が真実なのは、イエスだけが自分のことを証言しているのではなく、イエスを遣わされた父なる神も、イエスについて証言をしておられるからです。ここでも、ファリサイ派の人々の霊的な無知、闇が露わになり、同時に、イエスと父なる神の一体性が再び協調されています。この後も、ヨハネは(5章もそうでしたが)、イエスファリサイ派の人々との衝突の様子を、イエスの言葉を軸に、かなり長いスペースを割いて発展させて行きます。 今週も大切なことを大切に。