土の器

宮本牧師のブログ

婦人よ

御言葉の光が投げかけられるとき、明らかにされるのは、罪だけではありません。そこに本来あるべき私たちの姿が照らし出されるのです。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、(あなたに石を投げようとしていた)あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。」 彼女をイエスのもとに連れて来た悪意の人々は、彼女のことを「この女」「こういう女」と呼びましたが、イエスは彼女を「婦人よ」と呼びました。彼女の聞いた、イエスが彼女に語りかけられた最初の言葉です。ギリシャ語では「グナイ」と言い、とてもていねいで尊敬を込めた呼び方です。今は罪と恥とにまみれボロボロになっている彼女の内なる人の尊厳と価値、その人格を高める言葉です。ヨハネは、度々この言葉を使いますが、2章と19章でも使っています。いずれもイエスが母マリアを呼ぶ場面です。イエスは尊敬と愛を込めて母マリアに使ったこの言葉を、この女性に使っているのです。これが世の光であるイエスの眼差しです。イザヤ書43章4節(新改訳)、「私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。」嘘ではありません。それがほんとうの、本来あるべきあなたなのです。私たちは、神に創造され、初めから神のものでしたが、罪のうちに失われてしまいました。そんな私を神は探し出し、キリストのいのちという代価を支払って、もう一度、買い戻してくださったのです。これを贖いと言います。これがイエス・キリストの十字架の真実です。ですから、あなたは二倍に神のものなのです。 星野富弘さんの詩を味わってください。「むかし罪人だったというあなた。今も相変わらずつみびとなんですね。毎日毎日、目に見えない宝を天に積み上げている、すばらしい積み人です。」星野さんらしいユーモアにあふれた詩ですが、御言葉の光に照らし出された二つの真実、私たちの二つの姿を教えられます。拳の中に怒りを握りしめている罪深い私の姿、そして、神の愛され、赦されて生きる、もう一つの私の姿。私たちも目に見えない宝を天に積み上げている積み人とならせていただくことができますように。 今週は、教会員の葬儀が松阪で持たれました。温かく優しさにあふれた葬儀でした。