土の器

宮本牧師のブログ

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過越の祭で上京し、エルサレムにとどまっている間に、ニコデモの訪問を受け、あの意味深な問答をくり広げた後のことです。イエスユダヤの地で洗礼を授けていると(4章では「洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである」と但し書きがされていますが)、洗礼者ヨハネも、サリムの近くのアイノンという場所で人々に洗礼を授けていました。やがてヘロデ王の怒りを買って捕らえられ、首をはねられる洗礼者ヨハネですが、これはまだ彼が投獄される前のことです。 ヨハネの弟子たちとユダヤ人の間に清めのことで論争が起こりました。詳細はわかりませんが、イエスの洗礼とヨハネの洗礼について、何かしらの摩擦が生じていたことが、次の言葉からわかります。ヨハネの弟子たちが言いました。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています」と。明らかにヨハネの弟子たちの嫉妬心と苛立ちが見て取れます。実際に「みんなが」というのは誇張されている気がしますが、それほど人気がイエスの方に流れていたということです。 それに対する洗礼者ヨハネの反応です。「天から与えられなければ、人は何もうけることができない。わたしは、『自分でメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたがた自身が証ししてくれる。(「みんながあの人の方へ行っています」と。)」 何という謙遜で、自分の立場をわきまえた発言でしょうか。1章における最初の証言では、「わたしは荒れ野で叫ぶ声」に過ぎない、「わたしはその方の履物のひもを解く資格もない」と語っていましたが、ここでは「花婿の介添え人」と自らを名乗っています。そして、「花嫁(教会)を迎えるのは花婿(キリスト)だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ」と言うのです。そして、そこで語られたのがこのひと言でした。「彼は栄え、わたしは衰えねばならない。」 今週も大切なことを大切に。