土の器

宮本牧師のブログ

このままではいけない

過越祭は、ユダヤの三大祭の一つで、出エジプトの故事に由来する春の祭りです。エルサレムは巡礼者で賑わっていました。神殿の境内に入ったイエスは、そこで牛や羊や鳩を売っている者たち、座って両替をしている者たちをご覧になりました。そこは異邦人の庭と呼ばれるスペースでしたが、露天商たちが所狭しと軒を並べ、犠牲のための動物を市場の相場よりもはるかに高い値段で売っています。両替商も法外な手数料を巡礼者たちから巻き上げていました。このような境内での商いを独占していたのが、前の大祭司であるアンナスとその一家でした。礼拝が彼らのビジネスとなり、聖であるはずの神殿がマートケットと化していたのです。 それでも神殿に入り、神の民としての特権に与ることのできる人たちは幸せでした。婦人の庭へと上る石段には立て札があってこう書かれていたのです。「これより中に入る異邦人は、自らその責任を負わなければならない。その報いは死である」と。ユダヤ人を通して聖書の神を知り、その神を慕い求めても、異邦人である限り、これより中には入れないのです。声高に談笑しながら、誇らしげに石段を上り、婦人の庭を横切ってイスラエルの庭へと消えてゆく人々。その奥の祭司の庭では犠牲がささげられ、祭司はそれを携えて聖所に入り、神の前に祈るのです。 イエスは、マーケットと化した異邦人の庭で、神殿の奥に思いを馳せている異邦人の姿をご覧になられ、心の中で思ったのです。「このままではいけない」と。突如、けたたましい動物の悲鳴が雑踏を切り裂きました。何ごとかと振り返る人々の目に、檻から飛び出した牛や羊が映りました。次に両替商の方が騒々しくなりました。石畳の上には貨幣が飛び散っています。弟子たちは仰天しました。イエスです。イエスが、「わたしの父の家を商売の家としてはならない」と言いながら、縄を振り回し、露天商や両替人を境内から追い払っていたのです。それは、まさに旧約の最後の預言者マラキが語った、金を精練する者の火のように、神殿を清めるメシアの姿でした。遠巻きにその様子を眺めていた弟子の心に御言葉が閃きました。詩編69編10節です。「神の家を思う熱心がわたしを食い尽くす」。弟子たちは、神殿を「わたしの父の家」と呼ばれるイエスの熱心とその毅然とした態度に、やがてこの主張によって、イエスが死ななければならないことを予感したのです。 ユダヤ人の指導者たちは、これだけのことをするからには、どのような権威を持っているのかしるしを示せと言い寄りました。イエスの答えはこうです。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」するとユダヤ人の指導者は、「この神殿は建てるのに46年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と応答します。このかみ合わないやり取りもヨハネ福音書の特徴です。イエスが霊的なことを語っているのに、人々は目に映る現実だけで話題を終始させるのです。イエスが彼らに示されるしるしとは、死人の中からの復活です。三日目に建て直される神殿とは、イエスの体のことだったのです。では、ここで語られていることと宮清めとは、どういう関係にあるのでしょう。イエスが宮清めをなさった本当の目的は、ただ単に神の家を商売の家とする不正をとがめるためではなく、礼拝にかかわる律法そのものを廃棄し、新しい礼拝を始めること、つまり礼拝の改革だったのです。4章で、サマリアの婦人に語られるあの霊的な礼拝です。それはイエス・キリストが十字架で永遠のあがないを成し遂げ、三日目によみがえり、旧約の犠牲や礼拝を廃棄される時に始まります。これこそイエスがメシアであり主であることのしるし中のしるしなのです。 次の日曜日は、上半期の教区聖会です。特別講師は尾道教会の島田英明牧師。渇いた心で主を待ち望みます。 いつもは第1日曜がオープン礼拝ですが、今月は第2日曜になります。6月のオープン礼拝「やがて朝が来る」