土の器

宮本牧師のブログ

キリスト者の召命

今週も祈祷会を大切に。 御言葉をシェアします。フィリピの信徒への手紙2章から。 2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。 今日は春の京都聖会の聖職者会で学んだ「ケノーシス(自分を無にして)」から一部を学びました。 モーリス・ズンデルの言葉は心に響きます。 私のうちに主の人性の延長が行われ、今日の歴史の中にイエスが現存されるために、私の存在自体が主に浸透されるものとならねばならない。「私にとって生きるのはイエス・キリストである。」キリスト者のすべての完全さはそこにある。・・・キリスト者の召命は神の顔となること。教会とは私たちであって、自分が生きた福音となる責任を感じながら、一人一人が他の人々にとって神の顔となるように努めるなら、今日の世界には喜びがあるであろう。人が救われるのは説教によってではなく、現存によってである。そしてこの現存は人間の顔をとおしてしか現れない。 ---「沈黙を聴く」現代の神秘家 モーリス・ズンデルの人と霊性