何を残しただろう
東日本大震災の復興支援ソング「花は咲く」は、復興支援の歌であると共に犠牲となられた方への鎮魂歌でもあります。生きている私たちと犠牲になられた方と、どちらがどちらのために歌っているのか、お互いがお互いに呼びかけ合っているような、また過去と現在と未来が混じり合ったような気持ちにさせられます。
十字架によって贖いを成就し、ついに墓に葬られたキリストもまた、あの日私たちのためにこう歌われたのでしょうか。「今はただ懐かしい・・・、今はただ愛おしいあの人を思い出す。・・・悲しみの向こう側に、花は、花は、花は咲く。いつか(新しく)生まれる君に・・・私は何を残しただろう。」
「私は何を残しただろう。」それはある意味で、残した側の問題ではなく、受け取る側の問題のように思います。私たちが永遠の命という花を咲かせるために、キリストは今日も「私はあなたに何を残したのだろう」と語られるのです。
アリマタヤのヨセフは(ヨハネ福音書によればニコデモも協力していますが)、あの夕暮れにアダムの罪を贖ってくださったキリストの御体を感謝と感動をもって受け取りました。そして、アリマタヤのヨセフは自分が葬られるはずの墓にキリストを納めたのです。私たちもアリマタヤのヨセフのように、十字架上のキリストを、感謝と感動を持って受け取り、私たちの心の核心に納めようではありませんか。
今日は月に一度の志摩にあるテベリヤ教会での礼拝です。祝福を祈ります。