愛を以てこれを貫く
「現代語で読む新島襄」、1886年(明治19年)5月30日、仙台にある教会で語られた説教の草案から。
「キリスト教とは何か」と人から尋ねられたら、「愛を以てこれを貫く」と答えたい。
かつてキリストは「山上の説教」で「右の頬を打たれたら左をも差し出せ、1里行けと言われたら2里行け、上着を取られたら、下着をも取らせよ」と教えられた。・・・キリストの愛は広く、深く、また高い。
一学生は、「キリストで感心するのは、心が広く、自分の敵の罪を赦すように、と十字架の上でも神に祈られたことだ」と言った。これは人間にはできなくて、キリストだけが可能である。
キリストは私たちを救うために自分の食べる物を問題にせず、自分の立っている所も人に譲られる。また人に逆らわず、すなおに捕縛されてカルバリの刑場に引かれ、裁く人の前でも沈黙して言い訳せず、茨の冠さえ受けて十字架につけられ、自分を罰する者を許せと祈って死なれた。キリストは、この愛を以てこの世に来られ、神の道を説かれ、私たちを救うために茨の冠を被せられ、十字架にはり付けられた。また、この愛を以て私たちを近くに引き寄せ、今も私たちの心に働きかけられている。
キリスト、愛を以てそれを貫く。
今日は志摩市にあるテベリヤ教会の土曜礼拝です。今月は岐阜教会が担当してくださいます。祝福を祈ります。