逮捕劇
最後の晩餐の準備が始まった頃には、すでにキリストの生涯の最後の24時間に突入していました。それをバッハは「マタイ受難曲」として描き、メル・ギブソンは映画「パッション」で描きました。ゲッセマネの園での祈りが終わると、イエスは言われました。「立て、行こう。見よ、私を裏切る者が来た」と。聖書は、十字架に向かって歩み出されたイエスが裏切られ、敵の手に落ちるこの場面を、それがイエスの主導権のもとで行われたかのように記します。特にマタイは、イエスとユダ、イエスと弟子たち、イエスと群衆という三つどもえの関係で、そのことを明らかにしようとしています。
まずイエスとユダです。最後の晩餐の席を飛び出したユダは、イエスを捕らえる手はずを整えて、「祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆」と共にゲッセマネの園にやって来ました。ユダはイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言いながら口づけします。それがイエスを取り押さえる合図でした。しかし、イエスはユダを「友よ」と呼び、「しようとしていることをするがよい」と言われたのです。この言葉によって、イエスとユダの立場は逆転しました。この一言によって、イエスは裏切り者に欺かれて哀れにも捕らわれていく囚人ではなく、ユダと宗教指導者たちの企ても、口づけによる偽装も、すべてが滑稽な茶番としか映らないほど完全にこの逮捕劇の主導権を握られたのです。わかりやすく言えば、イエスは捕らえられたのではなく、自ら囚われの身となり、敵の手に身を預けられたのです。