さりげなく
このように、イエスは時の指導者階級の心の奥にまでメスを入れた後、その指導に盲目的に従っている民の過ちにまで言及し、その罪の責任が今の時代にふりかかろうとしていると告げられます。しかし、神の救いのドラマがミスキャストのまま終わることはなく、「主の名によって来られる方に、祝福があるように」と彼らが言うとき、驚くべき結末へと導かれるのです。そして、マタイ福音書は24章からオリーブ山講話と呼ばれる終末の預言に入って行きますが、マルコとルカの福音書では、その間に、短いですがキラッと光る素敵なストーリーが挿入されています。貧しいやもめの献金の物語です。
早朝から続いた宗教指導者たちとの問答と最後の説教を終え、イエスは少し疲れを覚え、神殿の境内のさい銭箱の前に座り込んでいました。そこは、「婦人の庭」と呼ばれる神殿の外庭です。回廊に囲まれた庭の壁にはラッパをひっくり返したような形をしたさい銭箱(献金箱)が13個、用途別にわけて掛かっていました。イエスは、過越祭に集まったたくさんの人々が行き交い、献げ物を投げ込んでいく様子をご覧になっていたのです。ある人は、わざわざ大きな音がするように献げ物を投げ入れていました。そこに貧しい身なりをした婦人がやって来て、通りすがりに、さりげなく、音もさせないで、いや音もしないほど軽くて薄い2枚のレプトン銅貨を献金箱に落として行ったのです。
1レプトンは労働者1日分の賃金1デナリオンの128分の1と言われますが、リビングバイブルでは「10円玉2枚をそっと投げ入れました」と訳されています。ユダヤの教えによると、献金に許されている最低額で、レプトンという言葉自体、小さいとか薄いという意味です。
イエスは言われました。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである」と。