土の器

宮本牧師のブログ

クォ・ヴァディス

ポーランドの作家シェンキェビィッチの歴史小説クォ・ヴァディスQuo Vadis)」は、暴君ネロの時代が舞台となっていますが、初代教会の様子が随所に散りばめられた興味深い作品です。物語の最後に、迫害が激化する中、ローマの信徒たちがペトロにローマを離れるように勧めます。ペトロは後ろ髪を引かれる思いで、ナザリウスという少年とともにローマを後にしました。そんな彼が、アッピア街道で、キリストに出会います。ペトロは、杖を地面に落とし、ひざまずき、手を前に伸ばして言います。「クォヴァディス・ドミネ?(主よ、何処にか行き給う?)」ペトロの耳に甘く切ない声が聞こえました。「あなたが私の民を捨てるのなら、私は再び十字架にかかるために、ローマに行こう。」ペトロは顔を地面につけ、言葉もなく地に伏していましたが、やがて起きあがると震える手で杖を取り上げ、何も言わずに来た道を引き返します。少年は山彦のように「クォヴァディス・ドミネ」とくり返します。静かに「ローマに」と答えたペトロは、やがて捕らえられ、ローマの信徒たちのために殉教の死を遂げていくのです。 「クォヴァディス」のストーリーは創作ですが、「主よ、何処へ」と尋ねたペトロの言葉だけはノン・フィクションです。ヨハネ福音書13章36節にこう書かれています。最後の晩餐の席でのことです。「シモン・ペトロがイエスに言った。『主よ、どこへ行かれるのですか。』イエスが答えられた。『わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。』」 主の御心がはっきりとわかれば感謝です。しかし、いまわからなくても、人生の曲がり角で、「主よ、何処へ」と尋ね続け、「その杯を飲ませてください」と両手でそれを受け取りながら、日々小さな死をささげて、イエスについて行く、それがキリストの弟子の道なのではないでしょうか。 「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」主よ、何処にか行き給う・・・。 明日も日曜礼拝は、朝10時30分から。教会でお会いしましょう。