ある結婚式で、二人がお世話になった牧師先生から短い祝電が届いていました。「お二人に聖書の言葉を贈ります。ヨハネの手紙一4章18節。」司会者が気を利かせて、聖書箇所を開きました。ほんとうは「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出す」と書かれている箇所だったのですが、慌てていた司会者は、ヨハネの手紙ではなく、ヨハネの福音書を開いてしまいました。「あなたには5人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」???
その後、どうなったのかは知りませんが、昨日の礼拝で、結婚、離婚、独身ということについて、イエスが何を語っているのか、ある意味で貴重な聖書箇所を学びました。普段、あまり礼拝では取りあげないテキストですが、導かれるところもあり、パスせずに挑戦しました。性のモラルが乱れ、未婚率、離婚率ともに上昇する時代、こういうテキストは好まれないのかもしれません。実際、聖書は、その時代に適応させながら理解するという面もあります。しかし、変わらない神の思いや原則を知ることはそれ以上に重要です。
礼拝のメッセージでは触れませんでしたが、リンクを張っている映画が準備に役立ちました。「ファイヤー・ストーム」というタイトルで日本語版も出ていますので、ぜひご覧ください。アメリカの教会が企画制作したもので、結婚している人にも、夫婦のあり方に悩みを抱える人にも、独身の人にも、お勧めの映画です。もちろんノンクリスチャンの方にも。
いつものようにイエスを試みるために、難題を持ってファリサイ派の人々がやって来ます。今日は離婚に関する問題です。「何か理由があれば、夫が妻を離婚することは、律法に適っているでしょうか。」
なぜこの質問がイエスを試みることになったのでしょう。まず、彼らがいた場所です。そこはヨルダン川の向こう側、ベレアと呼ばれる地方で、ヘロデ・アンティパスの領地でした。このヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロデヤをめとり、それを批判した洗礼者ヨハネの首をはねた人物です。もしイエスが離婚と再婚を厳しく戒めるような発言をするなら、ヨハネと同じ運命をたどる可能性もありました。
さらに、ファリサイ派の中に離婚に関する意見の対立があったことも、この質問の難しさでした。申命記24章1節の解釈についてです。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」
当時人気のあったヒレル派の考えでは、ここで言われている離婚理由が広く解釈されていました。たとえば、「スープを作る際に塩を入れすぎたり、火を通しすぎたりするような妻は、離婚してもかまわない」というのです。これならどんな理由でも離婚できます。ところが、シャンマイ派の教えでは、離婚ができる理由はただ一つでした。つまり、姦淫があった場合だけです。ですから、ここでもしイエスが、当時人気のあったヒレルの教えを支持するなら、イエスの道徳性の低さが問われることになりました。またシャンマイの教えを支持するなら、多くの人を敵にまわすことになります。どちらに転んでも、イエスにとっては不利になるような罠が、今回の質問にも仕組まれていたのです。