土の器

宮本牧師のブログ

失われた羊

その日、ムーディが開いたルカ福音書の15章には、有名な三つの譬え話が記されています。The Lost Sheep(失われた羊)、 the Lost Coin(失われた銀貨)、 the Lost Son(失われた息子)、この三つの譬え話です。マタイはその中から「迷い出た羊」のストーリーだけを、イエスを信じるどんな小さな一人をもつまずかせてはいけないという話題に続けて引用しています。「日本人に贈る聖書物語」では、この譬えが語られた場面が次のように描かれています。 「その日イエスは、元取税人のマタイの紹介で、ある有力な取税人が催した食事会に出席した。当然のことながら、そこには仲間の取税人、娼婦、前科者など(罪人とレッテルが貼られている者たち)が集まっていた。この光景は、かつてマタイの家で見たものと同じであった。イエスは一貫して、人の過去ではなく、今の状態(現在と未来)を問題にした。どのような人生を歩んできた人であっても、真剣に真理を求めているなら、イエスはその人を受け入れ、命に至る道を説いた。しかし、ファリサイ派の人々にとっては、取税人や前科者などを家に入れることはご法度であった。ましてや、彼らと食事を共にすることなど、想像すらできなかった。ついに彼らはイエスに噛み付いた。「この人は、罪人と交際し、食事までも共にしている。この人がメシアであるなら、そのようなことはしないはずだ」と。そこでイエスは無学な者にでもわかるように、三つの譬え話を語った。」わかりやすいですね。 さらに、譬えが語られた後の描写がとても感動的です。「この譬えを聞きながら、弟子のマタイは嗚咽を始めた。迷える羊の中にかつての自分の姿を見出したからである。確かに自分は危うい崖っぷちを歩いていた。羊飼いのイエスが捜し出してくださらなければ、今ごろは谷底に落ちていたことであろう。マタイの姿を見て、他の取税人たちも目を拭い始めた。」何と感動的な光景であったことでしょう。マタイがこの譬えだけはどうしても書きたかったとすれば、こういう理由なのだと思います。幸いなのは、自分が迷い出た羊、失われた存在であったと認めることのできる人なのです。