土の器

宮本牧師のブログ

私を引き寄せてください

「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。」

詳訳聖書では、「引き寄せて」という言葉が、「私のところに来たいという心を起こさせて」と訳されています。少し言い方はちがいますが、37節では、「父がわたしに与えてくださる者はみな、わたしのもとに来ます」、45節にも「父から聞いて学んだ者はみな、わたしのもとに来ます」とあります。ここに、些細なことに躓き、すぐにつぶやく私たちに、今日も伸べられている神の御手を見ます。

宗教改革者のカルヴァンによれば、「その引き寄せ方は、人々が外面的な力によって強制させるといった暴力的はもの(無理矢理信じさせられるようなもの)ではない。むしろそれは、効果的な聖霊の働きであり、それによって以前には望まなかった人々が、進んで望むようにされるのである」ということです。そうです。「聖霊によらなければ、だれもイエスは主であると言うことはできません。」

私たちの神は愛の磁力をもって、私たちをみもとに引き寄せてくださるお方です。「引き寄せる」という言葉が、『70人訳聖書』(旧約聖書のギリシャ語訳)のエレミヤ書で使われています。よく知っている言葉です。31章3節、「わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、絶えずいつくしみをもって引き寄せて来た。」

エジプトを出て、荒野を旅するイスラエルの民を導き守られる神の愛がしみじみと語られている所ですが、『70人訳』では、最後の部分に「引き寄せる」という言葉が使われています。

私たちはすぐにつぶやきます。しかし、主は、荒野を旅しながら、つぶやき続けた民をお見捨てにならず、限りなき愛をもって愛し、約束の地へ、御自身のもとへと引き寄せてくださったのです。私たちが救われたのは、私たちの努力や頑張りだったのでしょうか。そうではなかったはずです。つぶやいてばかりいた私たちに、永遠の愛を示し、真実を尽くしてくださった神の愛に魅せられて、信仰が芽生えたのではなかったでしょうか。

私たちはもうつぶやくことを止め、「私を引き寄せてください」と祈りましょう。これは今年の標語のすぐ後に出て来る雅歌の花嫁の祈りです。ああ主よ、引き寄せたまえ、われを御許に。ああ主よ、主よ、引きたまえ、十字架のもとに。

 

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